おじさんと果物は相性がよろしくない。
おじさんと果物が一緒の景色というのもあまり印象がよくない。
いわく、それはクラブやキャバクラなどで供せられる「フルーツ盛り」であり、歯槽膿漏の確認のためにかじられるリンゴであり、ドクターXで岸部一徳さんが多額の請求書とともに小脇に抱えているメロンである。
果物とりわけフルーツと称されるものは「かわいい」「わかい」「こども」「おんなのこ」のイメージをもち、それらのメタファーとしても用いられる。
清廉さ、みずみずしさの象徴である果物はおじさんと共演したとき、そのおじさんの醜さを際立たせしてしまう。
そうなると、当然ながらおじさんの側としては、果物とはちょっと距離をおいてしまう。
疎遠になってしまう。
やはり日ごろのコミュニケーションというのは重要なもので、疎遠になり始めるとその距離は縮まらない。
結果、折々にスーパーで旬の果物たちが陳列されていても、自分たちには関係のないものとして目に入ってこない。
たまに気づいてみても、値札なんぞを見て値段の割にたいしたことないヤツ的な評価をして、そのまま通り過ぎたりしている。
おじさんと果物の間には見えない壁があるのだ。
ところが。そんなおじさんがその壁を乗り越えようとするときがある。それは体の不調やら自らの不健康にふと気づいたとき。
「健康」という忌々しい二文字にお尻を押されたとき、おじさんは”よっこらしょっ”とその壁に足をかける。
グレープフルーツが血圧に効くとか、果物にふくまれるぽりふぇの~るが抗酸化作用が云々とか、食物繊維があーだこーだと言われて、果物に近づこうとする。
そのときには完全に「フルーツ=健康」の思考になっているので、なんでもいいから果物くわなきゃ!と目をサンカクにしている。
年甲斐もなく直情的になるのが、おじさんの悪いところだ。一説には前頭葉がおとろえているからだという話もある。
まぁとにかく、そういう過程を経て、おじさんはスーパーの果物棚や冷蔵ケースの前に立つことになる。
色とりどりの果物、時節によりその顔触れは微妙に変わりつつも、果物売り場は常に健康的な彩色であふれている。
オレンジやグレープフルーツの柑橘類やバナナ、キウイはなぜかいつもいる。桃、梨、ブドウ、チェリーの類には鈍感なおじさんでもさすがに季節を感じる。
さぁ、果物を手にしよう。
まずは血圧の問題を片付けなければいけない。なのでグレープフルーツを手に取る。
昔のグレープフルーツは甘くなかった。半分に切って、そこに砂糖をかけてスプーンでホジホジして食ったんだよなとか思う。
と同時に浮かぶのが「あれ、これどうやって食うんだっけ?」
手にしたグレープフルーツはどっしりと重く、光沢のある厚い皮で覆われている。
この皮は気軽に手で剥けるシロモノではない。
これは昔のように包丁で半分で切って食うのか?
となりの桃を見る。逆に桃の皮は非常に薄く、表面にびっしりうぶ毛が生えている。この皮ってどうやって剝くんだっけ?爪の先で皮をひっかけながらチマチマ皮むきしなきゃいけないのか?
次に視線に入ったパイナップルはヨロイのような皮を身にまとい、眼下のキウイはきれいな楕円形のボディに汚れた雑巾みたいな皮をくまなくピッタリ貼り付けている。
あぁ、キウイは確か半分に切ってスプーンですくって食うのか。
皮である。皮がおじさんの前に立ちはだかる。
包丁で半分にすればいい?包丁をわざわざ取り出して、まな板の上に果物を乗せて切って、包丁洗って、まな板洗って、それからしまう?
桃の皮はどうすればいい?包丁で?梨の皮は?包丁で?あまつさえ、パイナップルは?!
こうして、そっといつものバナナを買い物かごに入れるのだ。